Pipette Vol.21 Autumn 2018
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8第 回21チャーチルチャーチル様 68歳検査結果報告書※本編はフィクションです。チャーチル、『私の半生』を出版。         ドーマクの6歳の娘ヒルデガルトは手の傷が化膿し重症化。最後の望みと、ドーマクは赤色プロントジル(サルファ剤)を投与して完治。    チャーチルはテヘラン会談後に過労からチュニジアで肺炎に倒れたが、彼の命を救ったのは敵国ドイツで発見されたサルファ剤だった。注:1947年、ヒトラー亡き大戦後、ドーマクはノーベル生理学・医学賞を受賞した。チャーチル、海軍大臣就任。テヘラン会談。チャーチル、ルーズベルト、スターリンが第二戦線(西部戦線)を協議。翌年の連合軍によるノルマンディー上陸作戦へつなげた。ロンドン空爆に耐える※1。チャーチルのV字サイン※2※1チャーチルの戦時内閣は、ロンドンの地下室で閣議を行った。この地下室で彼は演説や外交のための文書案を口述し、女性秘書がタイプした。※21941年、ベルギーの元法相が提唱し、イギリスのBBC放送が「V for Victory」(「勝利のV」)キャンペーンを始め、「V」字の象徴的な使用は、ドイツ占領下のヨーロッパの全域に広まっていった。同年7月、チャーチルは、このキャンペーンについて演説の中で肯定的に言及し、手で作るVサインを自ら使い始めた。やがてフランスのシャルル・ド・ゴールをはじめ他国の指導者たちも、このサインを用いるようになった。項目検査結果基準値X線撮影両肺野に浸潤影を認めるCT検査両肺野に浸潤影を認める血中CRP100.00─0.14㎎/dL白血球数150003300─8600/μL酸素濃度94%96─99%細菌同定検査肺炎球菌ウィンストン・チャーチル1874年、英国貴族で保守党政治家の長男として生まれ、学生時代の成績はきわめて悪く、陸軍士官学校を経て大英帝国将校となる。世界各地へ従軍し、従軍記を執筆。特派員として赴いた南ア戦争では捕虜となり収容所脱走で母国の英雄になる。政治家に転身後は、第一次大戦で海相となり、作戦失敗で罷免されるも、陸相、軍需相、蔵相を歴任。1929年から自ら「荒野の10年」と呼び、政府の要職を離れるも、第二次大戦の開戦で海相に復帰して担当したノルウェー作戦失敗は首相責任とされ、1940年、65歳で首相就任。ヒットラー率いるドイツナチ党による欧州侵略に抵抗し、首相就任直後の「ダンケルク撤退」に成功、「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ軍を撃退。その後、ソ連、米国の参戦を得て英国を戦勝国に導いた。帝国主義の信奉者であったが、インドをはじめとする英国連邦植民地の戦後独立は阻止できなかった。1951年より76歳で2度目の首相就任。1953年、大戦の記録書などの功績でノーベル文学賞を受賞。90歳没。第二次世界大戦により傷つき亡くなられたすべての方々に改めて哀悼の意を表し、平和を希求いたします。ロシアの大熊とアメリカの大野牛の間に哀れなイギリスのロバが座っている。イギリスがいかに小さな国か初めて思い知らされたよ……戦争においては決意敗北においては不屈勝利においては寛大平和においては善意が必要だヒトラー、甚大な戦闘機損傷から イギリスへの空爆を中止。ソ連へ侵攻。米国に宣戦布告。         奇跡の創薬に対し、ノーベル生理学・医学賞をドーマクに授与すると発表。敵国からの受賞をヒトラーは認めず、ドーマクは受賞を辞退。チャーチル、家族とミュンヘン旅行。ナチ党を間近に見る。チャーチル、首相就任。英仏34万人の兵士を救出した「ダンケルク撤退」に成功。チャーチルは、「イギリスは決して降伏しない(We shall never surrender!)」と国民を鼓舞。ヒトラー、ドイツ首相就任。ヒトラー、チェコ併合、ポーランド侵攻。ベルギー、オランダ、フランスがドイツに降伏。        元衛生兵の病理学・細菌学者G・ドーマクは赤色プロントジルに化学抗菌作用を発見。

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