Pipette Vol.22 Winter 2019
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8第 回22薄田 泣菫※本編はフィクションです。※1『白羊宮』から。心の故郷としての京都を歌ったとされる。※2『子守歌』から。「他人の苦労の上にあぐらをかいてむさぼり食う、そんな怠け者、卑怯者に私どもが一人でもなれば、私たちの住む世の中はそれだけ滅びてゆきます」(高田好胤)。※3選抜中等学校野球大会歌から。作詞/泣菫、作曲/陸軍戸山学校軍楽隊で、現在の選抜高校野球大会の2代目大会歌。薄田泣菫様 40歳検査結果報告書項目検査結果血液検査各種異常なし髄液検査α‐シヌクレインが増加経頭蓋超音波検査脳黒質に異常所見運動症状として右手の振戦が認められ、ステージ1のパーキンソン病と診断される薄田 泣菫 (すすきだ きゅうきん)1877年、岡山県生まれ。岡山県尋常中学校を中退し上京。上野の帝国図書館で日本の古典、中国の漢詩文、英訳でヨーロッパ文学を独学。23歳でキーツ、ワーズワーズらのソネットに影響を受け、新体詩の第一詩集『暮笛集』で文壇デビューし評判を高めた。「すみれに泣きし子」と多感な自らを称した。30歳、泣菫最後の詩集となった『白羊宮』は、日本の古語の新たな復活に取り組んで名詩集と評価された。難解とまで言われたが与謝野寛(鉄幹)が賞賛。同時期にC・ロセッティの『シング・ソング』に啓発されて日本初の童謡である『子守唄』を試作発表(刊行は10年後)。40歳で始めた新聞の連載コラム『茶ちゃ話ばなし』が博識と風刺とユーモアにより大人気になる。この時すでにパーキンソン病の兆候がみられ、数年で病状が進行し、口述筆記となる。53歳、随筆集『艸そう木もく蟲ちゅう魚ぎょ』は枕草子や徒然草と並び称された。晩年まで随筆執筆や全集作りの意欲は衰えなかった。尿毒症で69歳没。国語の微妙な調子と匂いを後世に伝えられるならば、自分は朽ち果ててもかまわない決意だ!でもねえ、子どもでもわかるわらべ歌も作りたいえっ、身体が動かない私に野球の歌を作れですって?望郷の歌(第四節)※1わが故ふるさと郷は、朝あさじみ凍の眞まくづ葛が原に楓かえでの葉、そそ走ばしりゆく霜しも月づきや、專せんじゅねぶち修念佛の行ぎょうじゃ者らが都入りする御おこうな講凪ぎ、日は午ひるさがり、夕ゆふごえ越の路みちにまよひし旅たびごこち心地、物わびしらの涙いやめ目して、下しもぎょう京あたり時しぐれ雨する、うら寂さびしげの日ひみじ短かを、道の者なる若わこ人うどは、ものの香かく朽ちし經きょうぞう藏に、塵ちりい居の御みかげ影、古こ渡わたりの御み經きょうの文字や愛めでしれて、夕くれなゐの明あからみに、黄こがね金の岸も慕したふらむかなたへ、君といざかへらまし三びき猿 ※2向う小山を猿がゆく、さきのお猿が物知らず、あとのお猿も物知らず、なかのお猿が賢くて山の畑に実を蒔いた花が開いて実が生なれば、二つの猿は帰り来て一つ残さずとりつくし、種子をばまいた伴つれの名は忘れてつひぞ思ひ出ぬ。陽は舞いおどる甲子園(一番)※3陽は舞いおどる 甲子園若わこうど人よ 雄々しかれ長ちょうこんつうだ棍痛打して 熱球カッととぶところ燃えよ血潮は 火のごとくラ大だいまい毎 ラ大会 ラララララ

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