Pipette Vol.23 Spring 2019
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10第 回23ジョン・F・ケネディ※本編はフィクションです。※1伝説のキャメロット城でアーサー王を「円卓の騎士たち」が支えました。円卓は上下のない平等を意味し、ケネディの死後、妻のジャクリーンは彼の人生を「キャメロット」にたとえました。偉大で誠実なアーサー王は友や妻、息子の裏切りに遭いながら伝説の島・アヴァロンへと旅立ち、今でも危機がやってきたときには、アヴァロンから救いにくると言い伝えられています。※23歳頃から原因不明の下痢や腹痛、胃痛に苦しみ、高校後半から副甲状腺ホルモン剤とステロイド剤の投与が始まりました。長期のステロイド剤投与で骨がもろくなり(骨粗鬆)、腰椎損傷につながったとする見方もあります。ケネディ様 18歳検査結果報告書項目結果血漿コルチゾール(副腎皮質ホルモン)低値血漿ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)高値迅速ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)負荷試験血漿コルチゾールの増加を認めない全血球算定および血液像軽度貧血、白血球数の減少、相対的リンパ球・好酸球増電解質血清ナトリウム低下、クロール低下、カリウム上昇注 これはケネディ本人の当時の症状をヒントに推定した検査結果であり、実際の検査結果ではありません。ジョン・F・ケネディ (ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ)1917年、移民二世で実業家の父ジョセフの次男としてボストンで生まれた。幼少から病弱で原因不明の病に苦しみ、父の期待を一身に集める長男ジョセフジュニアには激しい劣等感を抱いた。第二次世界大戦中、兄を追って海軍に入隊。日本の駆逐艦にPTボートが衝突沈没するも部下と生還し英雄とされ、戦功を先んじられた兄は、対ドイツの危険な作戦に志願して戦死。その後、父からは「兄の代役」を期待され、父の財力と人脈、弟妹たちの献身などにより、1947年、下院議員当選。1953年、上院議員当選。1957年、著書『勇気ある人々』でピュリッツァー賞を受賞。上院議員時代の2度の腰椎手術(1度危篤)や生来の持病は秘匿して、1961年1月、史上最年少かつカトリック教徒最初の大統領となった。就任後、内政面ではニューフロンティア政策を推進し、社会福祉の充実、黒人人種差別の廃止などを目指した。対外的には侵攻作戦失敗後のキューバ危機を乗り越え、ソ連フルシチョフ首相と協調外交を展開。ソ連に遅れをとった宇宙開発でアポロ計画を推進するも、1963年11月、テキサス州ダラスで暗殺された。46歳没。下院議員当選(1947年)視察先で体調悪化。ロンドンで入院。アジソン病で余命1年の診断。腰椎狭窄悪化。上院議員当選(1953年)病状悪化で松葉杖。前立腺炎症。(1954年)腰椎手術・金属板を挿入。ステロイド剤で免疫低下。尿路感染で危篤。(1955年)2回目の腰椎手術。金属板を取り除き別の骨を挿入。ステロイド剤※2を止めコルチゾン投与へ。祖父P・J・ケネディアイルランドからの移民。酒場と酒の小売で成功。州議会下院議員5期。ボストンの実力者へ。父ジョセフ・P・ケネディ実業界で成功し大富豪へ。政界進出を図り、駐英大使に。アメリカ参戦を回避するドイツとの融和策を進め、ローズヴェルト大統領と対立して失脚。ジョンは「病気の百貨店」よ(母ローズ)ジョン病弱の劣等生第35代アメリカ合衆国大統領に就任(1961年)兄ジョセフジュニア文武両道ジョンは美しくも哀しい『アーサー王物語』※1を愛読した。アメリカ国民、そして世界の市民よ、私たちが諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私たちに求めてほしい。戦死した兄の代わりに家族の名誉のために、ジョン、お前が大統領を目指すんだ!それが、お前の責任だ!父ジョセフはジョセフジュニアの戦死の悲報を受けた。「だから私はアメリカの参戦に反対したのに……」妹たちは「ティーパーティー」(集会)を開催して支持者を獲得。弟ロバートも兄ジョンを政策面で支え、まさしくケネディ一家の勝利だった。若くてハンサムな大統領誕生に国民各界の期待が高まった。また、故国スペインの独裁政権に抗議して1938年から公の席での演奏を中止したチェロの巨匠P・カザルスは大統領の招請に応じホワイトハウスで世界平和を希求する演奏会を行った。♪ハッピーバースデイ ミスタープレジデント♪マリリン モンロー(就任1年目の誕生パーティで歌う)

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