Pipette Vol.24 Summer 2019
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10高田屋 嘉兵衛第 回24※本編はフィクションです。※嘉兵衛から日本語を学び嘉兵衛のためにリコルドの秘密文書も盗み読んで伝えたとされる「少年オリカ」は謎の存在で、ロシア語のオルガ(愛称ではオーリャ)ならば女性名のため現地イテルメン人の少女だったとする説、さらに晩年淡路島に戻った嘉兵衛と暮らした「愛妾織江」がオリカとする説もあります。文治様 検査日1813年1月検査結果報告書項目結果項目結果総タンパク(TP)低値コリンエステラーゼ(Ch-E)低値アルブミン(ALB)低値総コレステロール(TC)低値レチノール結合タンパク低値末梢血リンパ球数低値トランスサイレチン低値ビタミンB1低値トランスフェリン低値ビタミンC低値C反応性タンパク(CRP)正常鉄低値(注)検査項目ごとに正常範囲を示す基準値があります。その基準範囲の上限を超えると「高値」、下限を下回ると「低値」として異常を示すサインとなります。高田屋嘉兵衛 (たかたや かへえ)1769年、兵庫県淡路島の百姓・弥吉の長男として生まれる。22歳のとき、廻船問屋を営む叔父を頼って兵庫へ。すぐに頭角を現し、沖船頭(雇われ船頭)に昇格し、北前航路も経験。1796年、資金を得て念願の辰悦丸が完成。高田屋本店を開設。太陽が北海から昇る夢を見て北海雄飛を決意。1798年、函館支店を開設。翌年、函館で幕府役人と知り合い、全幅の信頼を得て幕府の蝦夷地御用御雇となり官船建造も担当。蝦夷地を松前藩管理から幕府直轄とする政策下で白羽の矢が立ったもの。嘉兵衛は先住民のアイヌとも融和しながら、漁場を開拓し名字帯刀を許された。函館開墾を推進し、淡路から農民を移住させた。1810年、場所請負制復活の実験として択捉場所の請負を命じられ、翌年、ゴローニン事件に巻き込まれる。拿捕された折、弟らに「只天下のためを存おり候」と記した。1813年、リコルドを説得し国後へ到着、日ロ双方の間を取り持った。カムチャツカ長官となったリコルドは、幕府が求めるフヴォストフの乱行は個人の所業とする釈明書を取りにオホーツクへ一度帰還し、再度、函館へ来航。嘉兵衛は交渉準備役を拝命し、この釈明書と引き換えにゴローニンが釈放された。嘉兵衛との別れに際し、ディアナ号乗組員は「ウラー、タイショウ(大将、万歳)」と叫んだ。1814年、国禁である日本出国の謹慎が解かれた。1818年、高田屋家訓を遺して引退。以後、淡路島に戻り地域の治水や港改修に私財を投じ貢献した。59歳没。ゴローニン事件1811年、千島列島の測量航海を行っていたロシア軍艦ディアナ号のゴローニン艦長らを国後島で幕府役人が逮捕。翌年、報復として商船観世丸の高田屋嘉兵衛ら6名をリコルド副艦長が人質として拿捕し、カムチャツカ・ペトロパブロフスクに連行。捕虜生活中の栄養不足から嘉兵衛は3名の部下を失うも、現地のオリカを通訳として育てながら、リコルドの尊敬と信頼を得た。嘉兵衛が幕府に談判した結果、1813年、幕府は函館で嘉兵衛らと引き換えにゴローニンらを平和的に釈放したが、通商開始は拒絶した。ゴローニン事件の私は生き証人なの。1798年︑近藤重蔵︑択捉島の日本領有を宣言1799年︑幕府の要請で嘉兵衛が国後~択捉航路を開発1806~7年︑フヴォストフは独断で樺太︑択捉などを襲撃し略奪嘉兵衛は志願同行した文治・金蔵・吉蔵・平蔵とアイヌのシトカに毎食︑白米を与え︑見世物にならないよう日光浴散歩も禁じたしかし︑1813年︑文治・金蔵・シトカの3名が栄養失調により命を落としてしまった1811年︑薪と水を求めて国後島に寄港したゴローニンを幕府役人はだまし討ちして捕縛︑函館に移送1812年︑リコルドは礼をもって嘉兵衛にカムチャツカ同行を求めた1804年︑ロシア皇帝使節団レザノフが長崎に来航し通商を求めるが︑幕府は鎖国を理由にすげなく拒絶3方向の潮の流れ(黒色)を読んで、嘉兵衛は赤色点線の直角航路を発見した無礼千万なこの国は武力をもって開国させるしかないな!しかと!フヴォストフ→日本には、あらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしく、偉大な国民的美徳が備わった人々がいたんだ。そうだろう?オーリャ!リコルドオリカ※

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