Pipette Vol.25 Autumn 2019
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10加藤 清正第 回25※本編はフィクションです。※1:明智光秀の死後、豊臣秀吉と柴田勝家が激しく対立し、賤ケ岳で戦うことに。秀吉の勝利に終わり、信長の後継としての地位を確かなものにしました。この戦いで武勇を称えられたのが「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれた槍の名手。脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明でした。※2:死亡原因については家康による毒殺説など諸説あります。※3:清正が亡くなった4年後、豊臣家は家康の手によって滅びます。清正があと4年長生きしていたら、時代が大きく変わっていたかもしれません。加藤清正 (かとう きよまさ)1562年、尾張国に生まれる。母親が豊臣秀吉の母と従妹同士であったため幼い頃より秀吉に仕える。1582年、本能寺の変が起ると秀吉に従い山崎の戦に参加。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将を討取る武功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として三千石の所領を与えられる。1586年、肥後北半国を十九万五千石を与えられ熊本城入り。1952年からの朝鮮出兵で活躍するも講和交渉を巡り小西行長、石田三成らと対立し、一時、謹慎処分となる。1598年、秀吉が死去すると徳川家康に接近。1600年、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)として参戦、肥後一国五十三万石を与えられる。1611年、二条城にて家康と豊臣秀頼の会見を取り持ち和解を促すが、その帰路、船中で発病。3か月後の8月に死去した。50歳没。何を言うんだ二条城での会見からの帰路、船上で発病。高熱が続き、皮膚が黒色に変色、言語障害、意識障害の症状から梅毒の劇症化が疑われる。3か月後に熊本城で死亡。※2※1その交渉には利がない!賤ケ岳に引き返せ!今だ、敵は崩れたぞっ※3加藤清正様 49歳検査結果報告書項目 検査結果 血沈 著明に亢進 CRP 強陽性 梅毒抗体検査STS法強陽性 TP抗原法 強陽性 秀頼様、お守りいたしますぞ清正はサポート役を務めてくれた

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