Pipette vol.31 2021.4 Spring
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The interviewていたので、すぐに安心させようと思い、「メンバーは変えず、1年後も君たちと一緒に戦おう」ということを言いました。私も、1980年のモスクワオリンピックでメンバーになりましたが、年が明けた1月頃には、ボイコットになるのではないかという話がありまして。それから5月までどちらになるのかという状況で練習していたので、選手の不安な気持ちは良く理解できました。その後、彼らは安心して練習を行い、夏のトラック競技では4人が5千メートルと1万メートルで大幅な自己新記録を出しています。選手たちは、新型コロナに負けていないですよ。―次の試合までにかなりの時間がある場合、選手としてはどのようなモチベーションを維持するのでしょうか。また、監督としてどのようにご指導をされていくのでしょうか。今回1年延びましたから、モチベーションというのは選手たちも難しい場面も当然あります。ですが、選手たちはオリンピックがあろうがなかろうが、やることはしっかりやっていますね。自分の高みを目指してやっているわけですから、油断することはないです。やはり試合が一番の目標ですから、目の前の試合に向かって練習していきますが、その最終目標がオリンピックということです。選手は、まず今年1年何を一番大きな目標でやるかということで逆算してスケジュールを組んでいくのです。ですから、何カ月前から走り込んで、何カ月前に試合をやってということを逆算していきます。それで、オリンピックにピークをもっていくということです。ですから、1年で一番ターゲットとなる大会を一つか二つ、まず決め、それを逆算してどこに試合を組み、合宿をしてという計画を立てていきます。―箱根駅伝の強豪校では、ユニークな監督がおられます。それぞれ特徴的で素晴らしい―昨年、本来ならば開催される予定であった東京オリンピック・パラリンピックが、新型コロナウイルス感染症の拡大により影響を受け、延期となりました。恐らく今のオリンピックを目指している選手たちの思いを一番分かってあげられるのは、瀬古さんのような気がいたします。選手たちにはどのような声掛けをされたのでしょうか。選手や監督は、「瀬古さん、1年延びても僕らは選ばれるのですか?」とすごく不安がっ 現役時代の瀬古利彦を知る人なら誰でも口にするはずです。その圧倒的な勝負強さと、たゆまぬ努力の人。そして中村清監督との固い絆に結ばれた師弟愛。1980年、日本がモスクワオリンピックをボイコットさえしなければ、金メダルを確実視されていました。国民のだれもが彼の走りに魅了され、どれだけの人が勇気をもらったか。現役を退いてからはエスビー食品、横浜DeNAランニングクラブドバイザーを務め、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化・戦略プロジェクトリーダーも担っています。持ち前の明るい性格から、現在は指導者としてだけではなく、様々な分野でその活躍の場を広げておられる瀬古利彦さんに緊急事態宣言発令中のため、今回はリモートでお聞きしました。エグゼクティブア若い世代の指導者として    瀬古利彦走り抜けた半生2|Pipetteきつこう会多根総合病院医療技術部 部長ゲスト聞き手Guest:瀬古 利彦The interview瀬古 利彦元オリンピックマラソン代表竹浦 久司社会医療法人

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