Pipette vol.31 2021.4 Spring
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       3方々ばかりです。若い選手の方と触れ合うことが多いと思いますが、最近の若い方とご自身の若い頃と比べて、相当違いますか。恐らく瀬古さんと中村清監督のような関係性は、今では難しいのではないでしょうか。当然時代は違うので、昔は体育会系、いわゆる監督、先輩は絶対だという時代でした。私も理不尽なことがあっても、我慢するような生活をしていました。それが当たり前でしたから、昔と一緒の指導方針では、現在の環境では受け入れられないと思います。以前は、雷を落とすくらいでないと本当に教えられないということはあったと思いますが、今では言葉で教えていくということが大事だと思います。一方的な指導ではなく、納得するまで話し合い、選手たちが自主的にやれるように監督たちが仕向けていると思います。 ―若い方をご指導されるとき、特に今心掛けておられることがあったらお聞かせください。陸上選手は個人対個人ですから、全員練習が違います。特に私の方針は、やはり1人の練習は一つの練習なのです。やれるところは一緒にやりますが、十把ひとからげではやりません。また、選手と「どのようなことをやろうか?」というミーティングをして、お互い納得しながら練習をするようにしています。―瀬古さん自身が選手時代、中村監督の指導方針に素直に従えた一番の理由は何ですか。初めて会った人に信頼をおくなどあまりないことでしょうけれども、初めて会ったときからもう、この人はすごいと思いました。私が入った当時、早稲田は弱かったのです。箱根駅伝も出ていませんし。こんな弱い大学にしたのはOBが悪いから私がここで謝ると言っておられまして、「陸上競技に命をかけている」。監督はそんな感じがしました。また私は、弱い人間なので厳しくしてくれないと流れてしまうほうですから、監督のような厳しい人がいてよかったと思います。―現在の横浜DeNAランニングクラブでは、アカデミーを主催されていますけれども、このような活動というのはどのような発想の下から行うようになったのでしょうか。子どもたちは中学校、高校ぐらいで将来どういう種目に行くか決まりますが、やはりその年代で強い練習をし過ぎて潰れてしまうという長距離選手がたくさんいます。成長期に適切な指導をしていかないと、やはり大きく伸びないと思います。適正なトレーニングを13歳から15歳はしなければいけないと思っています。―モスクワ五輪の後、メジャーである福岡国際マラソンやボストンマラソンと立て続けに優勝された後に大きな怪我をされました。その後、1年以上もレースから遠ざかっておられましたが、それほど大きな怪我というのはどういう状態だったのでしょうか。モスクワオリンピック参加がなくなったので、7月にヨーロッパ遠征に行き、1万メートルで日本記録を出しました。その後12月に福岡国際マラソンを走って、4月にボストンマラソンを走って、その後またヨーロッパ遠征に行ってと、オリンピックがなかったのでもうずっと頑張っていたのです。それで、ヨーロッパで走っていたら、松の根で捻挫してしまいました。実はそれがうれしかったのです。怪我でもしないと休めないですから、これで練習しなくていいと思いました。当時はそうだったのです。やがて回復して練習を始めるのですが、左足の捻挫をかばっていたら、今度は右の膝が痛くなってきまして。それが、すぐ治るだろうと思ってやっていたら、半年も治らなくて、また治りかけたらまた走り、それでまた痛くなってと、その繰り返しで、それが1年以上続きました。私の場合は、足が痛くても完全休養というのはほとんどしないのです。よほど捻挫して腫れたら走れませんけれども、それ以外は必ず走って…。走って治すやりかたを選びました。治るのは遅かったですけれども、完全回復してからは早かったです。練習を始めたら、3カ月くらいで前の自分に戻れました。大怪我を乗り越えて

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