Pipette Vol.9 Autumn 2015
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2喉頭がんを克服して、笑点の大喜利に復帰された林家木久扇師匠にお話をお聞きしました。聞き手 横地 常広(日本臨床衛生検査技師会専務理事)もの真似上手から落語家へ―私、実は学生時代は落語研究会におりまして、結局、落語家にならずに臨床検査技師になりました(笑)。師匠は最初、漫画家を目指されたとか。そうです。高校を出て、乳業会社に準社員、当時でいう見習いとして就職。乳業会社ですから、8月でも冷蔵庫の中と同じくらい、職場がとにかく寒いんです。これはちょっと勤まらないかなと。一番下っ端で、蒸気の入ったお湯で一斗缶を洗う仕事だったんですが、ぼくは缶を足に落としてしまい、明くる日、長靴がはけないぐらい膨らんでしまったり……。家業を継ぐから勤めができなくなったと無理にこじつけて辞めたんです。友だちが、清水崑さんという、あのカッパの先生を紹介してくれて、そこに研究生として入って、4年間内弟子でいました。先生は朝日新聞の嘱託で、すごく売れていましたが、手塚治虫さんが中心のトキワ荘の子ども漫画のほうが隆盛になる過渡期でした。ぼくは剽ひょう軽きんものですから、もの真似が得意で、小さいときからたくさん映画を見ていたので、エノケンとかロッパとか、喜劇の人の真似ができたんです。今でいうタモリが欽ちゃんの真似をしていたみたいなもので、そういうのをお酒を飲む会で披露すると、ばかに拍手が起きました。それでプロになれと言われたんです。ぼくはもの真似、声色が得意だったんですけれども、話芸、話術がないと駄目だ、話芸は一人芸で、落語というのがあるからそこに弟子入りしたほうがと、清水先生の推薦で林家正蔵師匠に弟子入りさせていただいたわけです。演芸もドキュメント―師匠の笑いは、とても元気で明るく、特有の持ち味を感じますが。笑点の大喜利は、来年の5月で満50周年になるんです。ぼくは、47年間、大喜利に携わっていますが、ほかの方はいい答とか、うまい答というのを狙ってらっしゃるんですが、私は、演芸なんですけれどもドキュメントだと思っているんです。たとえば、ダブル襲名なんていうことをやりまして、うちの子どもを売り出すための作戦なんですが、それもユーモアで包んで、ぼくの「木久蔵」をあげて、せがれをいっぺんに有名にして、自分の新しい芸名

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