Pipette Vol.15 Spring 2017
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●グッジョブ・技師のお仕事ゲスト 滝田 栄5されて、その時代の空気に流されたままで気がついたら戦争になっていたとか、とんでもない方向に行っていた、ということがあります。自分の絶対に動かないポジション、支えというか、自分の心のありかというもの、核心を見つけないと、翻弄されたままの人生で終わってしまいます。政治的に社会主義がもてはやされたとき、「これだ」と思ってみんながその方向に行ったら、結局、ほとんどの人が強制的に働くだけで、一部の人だけが権力を持って、社会主義は失敗に終わってしまいました。資本主義のほうがうまくいっているかと思ったら、欲望成就が人生のテーマだといって、働け、働けとみんな頑張ったけれども、気がついてみると、一部の人がほとんどの財力、権力を持ってしまって、それ以外の人はあまり幸せになっていなかった。それでもまだ、テレビをつければ、もっと物を持て、もっと買え、もっと稼げ、株がある、宝くじがあると言っている。「物とお金を追いかけるのが幸せにつながる基本だ」と、資本主義は謳い上げて引っ張っているわけですね。右回りしても、左回りしても、結果的にグローバルというところまで行ってみたら、平等ではないし、ほんの一部の人がのけぞるほどウハウハになっていて、使い切れないほどのものを持っていて、それ以外の人はほとんどが駄目だったというのが現実です。そんな中で、朝から晩まで、メディアや時の流れに翻弄されていると、本当の人生の目的も見えず、どこにいたらいいんだろう、何を支えにしたらいいんだろうという問題が、心の中に起きてきます。いまだに人は迷っている。お金とか、物とか、地位とか、名誉とかいうものは、あるときはいいですが、必ず失われるときが来ます。ただ、失うのが怖くて、「もっと、もっと、もっと」という状態になっているのですね。そういう世の中にあって、これさえあれば大丈夫という、はっきりとした心のあり方を示してくれたのが、お釈迦さまとキリストで、この人たちがほんとうの救世主、本物だなと思う。―幼いころは、仏壇があり、法事のような行事もたくさんありました。最近、若者が育っていく生活環境の中に、宗教があまりかかわっていないように思いますが。宗教という言葉はあまり使ったことがありませんが、「父母や兄がいつまでも安らかな世界にいてください。仏さま、お願いします」と目をつぶって心の中で般若心経を唱えると、ぼく自身も明るい世界に入っていって、一日、さわやかで、誰と会っても嫌な気持ちにならないんです。すべての人に心を開いて会えるし、ベストの自分を示現できる。それが、いわゆる芸能人とかの肩書きで生きていくと、いつも肩に力を入れて頑張っていないと、自分を維持できない。これは大変です。でも、今のぼくは、素っ裸になって、何も怖いものはないし、誰とでも楽しくいられます。これは、仏さまのおかげだと思っています。キリストの教えも、ぼくは大好きです。マリアさまがわが子を抱き締めて、慈愛に満ちた眼差しでしっかりと守ってあげている。マリアさまがキリストに向けたやさしい母の愛に満ちた目を、すべての人に向けることができたのが、菩薩の目だなと思っているんです。すべての命あるものに、そういう目を向けて、絶対に傷つけない、ウソをついたりしない、そういうところからでき上がっていった魂は「宗教」ではなくて、ごくごく普通の日常です。ぼくにとっては生活の方法論、真実なんですね。―誰にでも向けられるやさしい心ですか。若者たちを見ていると、そのような意識が薄くなっているのではないかと感じたりします。昔は、悪いことをしたら祖父母からは叱られるし、困っている人を助けてあげると、神さま、仏さまからお駄賃をもらえる、悪いことをしたら罰が当たるとされました。人のすばらしい習慣とか、思いみたいなものが薄れてしまっているというのは、物を追いかけて、物を持てば幸せになれると信じてし

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