Pipette Vol.16 Summer 2017
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●グッジョブ・技師のお仕事ゲスト 大村 智3だけあって、研究者というのはどういうものかをよく知ってくれていた。例えば、冠婚葬祭があります。私は長男で、しかも地方ですから、絶えず声がかかるのですが、ほとんどの場合、文子が代理で行ってくれました。文子は社交的でみんなに好かれて、親戚中でも彼女のことはよく知られていましたから、とても助かりました。―アメリカ留学中も相当支えられていたようですね。彼女は非常に明るい性格で誰とでも話をしましたから、現地の先生方にもすごく好かれました。そして、知らないうちに、算そろ盤ばんを日本から取り寄せて、算盤教室を始めたのです(笑)。ある時、スーパーマーケットが停電になって、アメリカ人は計算が得意ではないので、レジが駄目になるとまったくアウトです。文子がレジに行って、金額を言ってもらい、どんどん暗算を始めたのです。あっという間にトータル金額を出すので周りのみんなはびっくり。彼女は算盤の全国大会に参加するぐらいの実力者ですからね。実験をやっていくと計算しなければいけない。そういう時、私は文子に電話をして「ちょっと計算してくれ」と言うと、パッと答えが返ってくる。今でいう、電子計算機(笑)。一事が万事、助けてくれましたね。―アメリカにいる2年弱の間に、英語を覚えられたわけですね。私も文子も英会話は得意ではありませんでした。彼女はどこで調べたのか、プエルトリコなどからの移民の人たちに教育をする夜学コースを探して通い始め、あっという間に会話ができるようになっていました。そういうところも積極的で、帰国する頃には私よりも英語がうまくなっていたと思います。―やることがすべて手早いですね。何事につけても飲み込みがよかったですね。―その文子さんは長年がんと闘い、60歳の若さで他界され、先生のノーベル賞受賞を知ることはありませんでした。先生の評伝やエッセイを拝読した際も胸が詰まりました。今頃、たぶん、自慢していると思います。「私があれだけに育てたんだ」なんて(笑)。ノーベル賞を受賞した後、文子が家庭教師をやっていた子どもさんの親たちから、「絶対にうちの人はノーベル賞をもらうと奥様は言っていましたよ」と聞かされました。―外の人に言っていたのですね(笑)。えらい啖呵を切ったものだと思いました。―文子さんは先生を支えることが励みに。楽しんでいましたね。私を支えることに生きがいを感じていたのではないでしょうか。北里研究所との出会い―先生が敬愛される創設者の北里柴三郎先生や北里研究所の伝統について教えてください。大学卒の若い人と、私のような8年目の人間が一緒に入所試験を受けたのですが、定員1名だし、私がそれまでやったことがないペニシリンの構造式を書けといったような問題でしたから、これは駄目だろうと(笑)。英語の試験が多少できたようで、合格したのです。入ってみると、周りはお医者さんが多く、しばらくした頃、「ここに長くいることはできないな」と感じましたね。ところが、文子の母が、私たちにお小遣いをくれ、日本薬学会が企画したヨーロッパの製薬会社を回るツア夜間教師を辞めて山梨大学の研究助手となり、東京理科大学から助教授職の声がかかったので山梨大学に退職を申し出たら、急に助教授ポストの空きがなくなり困っていたところ、知人の勧めから北里研究所の所長付き化学研究員に応募して合格採用というドラマのような展開となった。ノーベル賞受賞式の後、アルフレッド・ノーベルの胸像の前で

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