Pipette Vol.16 Summer 2017
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5に2回も3回もゴルフには行けません。それではどうするかということで考えついたのが、「人の真似をしない」ということ。具体的にどういうことをしたかというと、ゴルフが終わって解散してから、必ず練習場に寄るのです。その日に失敗したことを練習します。そして、「これが原因か」とわかれば、ボールが残っていても帰ってしまう。でも、原因がわかるまでは徹底してやるのです。海外留学という転機―先生らしい逆転の発想ですね。この大学のマックス・ティシュラー教授の人柄に好感をもったことと、「給料が安いからにはきっと何か別にいいことがあるに違いない」という理由でしたが、この選択は間違っていなかったと思います。給料というのはついてくるもので、研究ができる環境がしっかり整っているのはどこだろうということを基準に、物事を判断するべきだと考えたのです。ティシュラー教授が、その後、アメリカの化学会の会長になられました。16万人を有する大学会ですから、先生は自分の講座の学生や院生の面倒を見られなくなるため、私になるべく協力してくれということになったのです。「智は、英語は下手だけれど、やることはちゃんとやる(笑)」と信用してくれました。客員研究教授という立場もよくて、自分の研究もできるということです。しかも、レベルの高いティシュラー先生ですから、アメリカ中の大物が寄ってくるわけです。その人たちすべてを私に紹介してくれて、教科書に名前が出てくるような先生方とも話ができました。給料の何倍もの価値がありましたね。突然の帰国命令―簡単な宿題には思えませんが。セルレニンとロイコマイシンの2つを知らしめました。特にセルレニンは、生化学の試薬としてなくてはならない化合物ということがわかって、世界的に有名になりました。1964年に脂肪酸の生合成関係でノーベル賞を受賞したハーバード大学のコンラッド・ブロック先生と、セルレニンの共同研究で論文を2つ出すことができましたが、ティシュラー先生のところに行ったからできたことです。若手の留学先は2名のポジションを確保して帰国しました。―たった1年半で日本からの帰国命令には当時、相当悩まれたと思います。帰国してからも、ウェスレーヤンでやっているレベルの研究をやることと、このように大勢の有名人が寄ってくる環境を学生たちに提供し、共有する場を作ることを心に決めました。そうしなければ日本で人が育たないからです。とにかくアメリカでやっている連中に負けないためにはどうしたらいいか。それには研究費をとにかく作らなければと、宿題にはなかったけれども、企業を回って、いろいろな話をしました。「北里は、必ず物質を見つけることができる」という経験と自信があったからこそ、その費用を出してもらうというお願いができたのです。物質を見つけたら、製薬会社にライセンスを渡せばいいのではという考えもありました。1973年、当時のレートで年間8万ドル、2000万円以上の研究費を持ち帰った日本人研究者は、そうはい他人が見つけた物質の構造決定から自身で新しい化合物を見つけることを始めた。研究の転機に、と海外留学を決心し、いくつかの大学を訪問。調査、交渉の結果、選択したのは、提示された給料が一番安い米国コネティカット州ウェスレーヤン大学だった。海外留学にあたっての上司からの宿題は、①北里研究所で発見した化学物質を米国で売り込んでくる、②北里研究所の後輩の次の留学先を決めてくる、の2点で、急な帰国命令にもかかわらず、宿題をクリアできた。ティシュラー教授の部屋に飾られた新聞の切り抜き漫画(ゴルフをする「サトシ」とキャディーをしながら算盤をはじく「フミコ」は教授が手書きしたもの)

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