Pipette Vol.17 Autumn 2017
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6までとはまったく違うことをやらなければならないわけですね。経営するという自覚がなく、自分の研究室でやってきたことをそのまま継続するのでは、経営にはならないのです。私の場合、自分がどういう立場にいるのかという責務を自覚することから始めるのが大事だと考えたのです。そのためには、自分自身がその力をつけなければいけないということで、妻の文子の恩師に紹介された専門の先生から教科書をいただいて財務諸表の見方を教えてもらい、月に1回、先生に質問する会をやりしました。それから、当時、東京海上火災の社長だった渡辺文夫先生からは経営のノウハウを教えていただきました。日本興業銀行副総裁から東洋ソーダの会長を務められた二宮善基先生は北里研究所監事でもあり、経営者としての発想、経営者として何をやるべきかなどを教えてもらいました。大学教授としては、人に負けないだけの仕事をしてきたと思いながらも、経営はまったくの素人という自覚が私にはあったので、積極的に経営の勉強をしましたし、実際に、勉強したことを活かせたという実感もあります。―先生は「研究を経営」すると表現されました。「経営を研究」するのは、経営学という学問があるわけです。私はその逆で、「研究を経営」してやろうと。その中身は普通の経営とは違うものがあって、一番強調しているのは「人材育成」です。人材育成という理念があっても、もちろん資金がなければできないわけですから、資金を確保することは大事ですね。それから何を研究するかということも大事になってきます。私の「研究を経営」するという理念の中で最も大事なのは、世の中の役に立つということです。人材育成を一番先に挙げているから、私の部屋から博士号が百二十数名、そのうち、教授に31名がなりました。私立の大学で、このような実績を残すのは稀有なことですが、それをできたのは、「研究を経営」したからだと思います。―「カネを残すは下」、「仕事を残すは中」、そして「人を残すは上」ということになるのですね。そうです。明治時代の後藤新平のその言葉をきちっと守ったわけです(笑)。そうやって人を育てたから、私はノーベル賞をもらうような仕事ができたと思いますね。理解を得る苦労と努力―「選択と集中」という経営学の王道を行くお仕事であったと思います。これだけやれたのは、私の能力を発揮させていただけるところにいたからだと思いますね。先輩たちも一生懸命経営をされたのでしょうが、やり残したことがたくさんあって、それを私が社員の協力の下、整理させていただいたということだと思います。―病院長の交代人事、ワクチンの製造体制の見直しなどは、相当の反発があったのではないですか。確かにありました。とくに病院長人事のときは、先輩たちから「それは駄目だ、駄目だ」と言われました。けれども、私はガンとして方針を変えない(笑)。むしろ、こちらのほうから社員一人ひとりに、「これはこういうわけですから」と説得して回って、最後は全部賛成していただきました。「今年は赤字だ」となると、社員総会では院長が責められますが、それまでの院長は「病院なんてどこも赤字だ」と言っていました。私は「どこもみんな赤字だということは、日本から病院が消えるということですよ」と発言しました。―社員総会での反発が想像できますね。私は医者ではないですから、病院にまで口を出すのかと大変でしたよ。―KMC病院の開設では、地元医師会の猛反対もあり、奥様の文子さんの発案で、地域住民の署名運動が効果を得ました。病院エントランス前には文子さんがプロデュースされた彫刻が優しく訪問者を迎えてくれます。石黒光二さんの作品ですね。患者さんを迎える雰囲気を作ろうとしてやったのでしょう。開設後は来院や入院の患者さんを地元の開業医に返すことをしっかりやって信頼を得ました。病院の従業員はみんな、私の苦労を知っています。私はよく質問を受けます。「言ったことをすべて実行できたのはどうしてですか」、「そんなに見通北里研究所の副所長に就任した際、北里大学薬学部教授を辞め、退路を断って経営に専念する道を選ぶ。その後、港区白金にある本院の経営改革と病院長の交代人事、ワクチン製造体制の合理化を断行。さらにはメルク社からの特許料と、遊休不動産を処分した資金などを使い、KMC病院を建設。北里研究所の所長昇格後は、生物製剤研究所の移転や看護専門学校の建設、本院の増改築などに取り組んだ。

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