Pipette Vol.19 Spring 2018
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2大学生時代に落語と出会い、独自の「たい平ワールド」でサービス精神旺盛な笑いを提供している落語家のたい平師匠に、高校時代の同級生である臨床検査技師がお話をうかがいました。ゲスト  林家 たい平聞き手  五十嵐 清子(一般財団法人東京保健会病体生理研究所 検査部長)美術大学へ進学―お久しぶりです。今日は日本臨床衛生検査技師会の関甲信支部・首都圏支部合同学会の公開講座で「笑いのパワー」というご講演をしていただきありがとうございました。会場の皆さんもたい平さんの話芸に聞き入りました。いっぱい笑いも誘っていましたね。まじめな学会ですから、最初は緊張しました。「青年の主張」みたいな話になってしまいました(笑)。―たい平さんは、高校では美術部でバレー部。私はバレー部のマネージャーでした。そうじゃないんです(笑)。美術部に入るということには微妙なこだわりがあって、バレー部を休部して、美術室に通っていたんです。僕が入ると、美術部の雰囲気を壊してしまうので(笑)。自動車部は幽霊部員ですし、屋台囃子同好会やヤンバルクイナーズという軟式野球部にも入っていました。―高校の卒業写真には屋台囃子同好会で、ジャニーズ系で写っています。あのころはやせていましたから(笑)。お金がないから、僕の発案で、自分たちで廃材を利用して提灯を作ったりしました。―たい平さんは器用だったから。でも、美術部でないのに進学先が武蔵野美術大学というのは?美術室には毎日通っていたし、担任が美術部の顧問の先生でした。遊びすぎて普通の大学に行けるレベルじゃなかったけれど、自分と同じ美術の先生になったらどうかと勧められて。―何の先生でもよかったわけ?ええ。中学生時代に三年B組金八先生に憧れたし、学園物のドラマは熱血教師ばかりでしょう。生徒も先生も共に育っていくところがいいなあと。それで猛勉強して、秩父では進学校の秩父高校になんとか入ったわけです。―私たちが卒業した秩父高校は創立110周年。共学で、歴史のある学校です。すごく自由な校風で、型にはめずに自分で考えろという空気がよかったですね。美大に受かって、貧乏だったから秩父市が運営する清瀬市の学生寮に入れてもらったのだけど、同室がバレー部の一番怖い先輩で……。―私も臨床検査の実習病院の関係で同じ市に住んでいたけれど、一回も会わなかったですね。僕がこそこそしていたからね(笑)。大学はデザイン科で、当時バブルで広告やポスターも華やかだったから、グラフィックデザイナーが花形の仕事だと思ったし、毎日が制作で教職課程とはスケジュールが両立しないこともあって、学校の教師になる夢は薄れたんです。ラジオで落語を聞いて―それがどうして落語家の道へ?「デザインは人を幸せにするためにある」という言葉を入学時に教えられて、いろいろと模索して毎日の制作に追われ、悶々としていた大学3年のときに、たまたま聞いていたラジオから落語が流れてきたんです。5代目柳家小さん師匠の「粗忽長屋」という噺です。高校卒業アルバムから(2段目中央)

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