Pipette Vol.20 Summer 2018
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8第 回20ゴッホファン・ゴッホ様 36歳検査結果報告書※本編はフィクションです。大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出して、まるで日本版画に見る風景のようだよ。(画家ベルナールへの  手紙から)ゴッホさん、それは無理だ。あなたは失望するだろう。君の理想郷はこの国にアル。例えばアルル……。林さん!(※1)何をしてもダメな僕を憧れの日本に連れて行ってください。いっそ日本人になりたい!北斎、広重、英泉―なんてすばらしい構図と描写だろう。日本は美しい国だ。ゴーギャン!アルルの黄色い家へようこそ。(※2)どうして君は物を見たまま描くんだ?絵は想像力で描けよ。絵の具のキャップは毎回締めろ。もったいないだろう。2カ月後僕の病気と異常な行動のせいで、ゴーギャンは出て行ってしまった……。(※3)アルルの近隣住民サン=レミ修道院療養室内ゴーギャン、僕は鉄格子の向こうの夜空を想像力で描いたよ。でもね、星がぐるぐる渦巻いているのは見たままだけど……。『星月夜』ゴッホさん、よくぞ成し遂げました。※1林忠正は1878年、パリ万国博覧会に通訳として渡仏。その後、「若井・林商会」で浮世絵をはじめ日本の美術品を販売。1886年、雑誌『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号にフランス語で寄稿し、日本の歴史・文化・宗教・教育・住宅・服装・食事・芝居見物・芸術・ことわざなどを紹介した。林とゴッホの深い交流を推定した原田マハの小説『たゆたえども沈まず』(2017年)がある。※2経済的な苦境にあった画家ゴーギャンは、南の島に渡る金欲しさに、テオが示した金銭条件によるゴッホとアルルでの共同生活に同意した。※3イギリス人の女性作家B・マーフィーは『ゴッホの耳』(2016年)で、ゴッホの自傷事件発生当時の徹底した記録の調査を通じ、ゴッホが自分の左耳を捧げたとされるラシェルとは、通説の娼婦ではなく娼館で働く若くけなげな小間使いのガブリエルで、錯乱した宗教的動機からだったとし、さらに家族が引き取るか精神科病院収容をという住民請願書も、ゴッホを貸家から追い出す利害関係を有する数名の所業であったとした。項目検査結果脳波検査発作間欠時には、3Hz、100μVの不規則な棘徐波複合が全般性に出現し、引き続き、9-10Hz、100μVの高振幅律動波が全般性に出現する。光刺激で棘徐波が増加し、過呼吸で徐波化する。発作時には、突然、低振幅速波が出現し、その後、高振幅徐波に移行する。筋電図で脳波は判読できなくなる。画像診断MRIにて、皮質白質境界の不鮮明化、脳回の拡大、白質信号強度の上昇がみられ、限局性皮質形成異常(FCD)と考えられる。海馬硬化が認められる。特異的な脳腫瘍や脳血管異常を疑う所見は、認められない。フィンセント・ファン・ゴッホ1853年、オランダ南部の牧師の家に生まれ、16歳から叔父の経営する画商グーピル商会に勤務するが、23歳で解雇され、聖職者を目指して伝道活動を行ううち、28歳頃から画作に取り組んだ。グーピル商会の後身会社の支店長となっていた4歳年下の弟テオを頼り、1886年、パリへ移り、印象派や新印象派の新進気鋭の画家と交流した。翌年の第2回パリ万博に初出品された日本芸術はジャポニズムとして注目を集めゴッホにも多大な影響を与えた。芸術村を夢見て南仏アルルでゴーギャンと共同生活を始めるも挫折し、左耳を切り落とす自傷事件後、住民の病院収容請願もあり自発的にアルルを去ってサン=レミの療養所に入所。そこでも精神発作が続き、1890年、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地した2カ月後、胸部に銃弾を受け外科手術もなく、37歳没。兄を支え続けた弟テオも後を追うように、半年後、新妻ヨーと幼児フィンセントを残して死去。(※3)

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