Pipette vol.31 2021.4 Spring
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れないかもしれませんよ」と言われて。それで実は、走らずに歩いたりして1週間休んでいたのです。体調がもう全然駄目で。そういうことも人に言えないですし。もし、調子が悪いなどと言ったら、新聞記者がどっと集まってくるでしょう。もうストレスがたまってしまって。言える人は、実家のおふくろにしか言えませんでした。それで、家に電話して、泣きまして。「走れなくなっちゃった、ごめん」と、泣いて電話した覚えがあります。当時はその弱みを見せてはいけない、言ってはいけないと思っていたのです。そういうものは自分で全部処理するものだと思っていましたから。本当におふくろには心配をかけました。おふくろは何と言ったと思いますか。「円谷さんみたいに死んじゃいけないよ」と言われましたから。―復活されてから、東京国際マラソンで、優勝されましたが、そのときのお気持ちというのはどのような感じでしたか。1年10カ月ぶりのマラソンだったのですが、本当に、痛いときはもう一生治らないのではないかと…。治らないなら引退を考えなければならないかな?というぐらいのところまで追い詰められました。約1年間満足する走りが一度もできないのです。そういう生活を乗り越えて日本記録を出したので、それはもうめちゃくちゃ嬉しかったです。苦労したかいがあったと思います。―ライバルの存在は大きかったと瀬古さんの著書で読んだことがありますが、いかがでしょうか?やはり、宗兄弟ですよね。ライバルというか、早稲田に入学したときに最初に中村監督から聞いたマラソン選手の名前が宗兄弟でした。中村監督から「宗兄弟というのは、これから将来お前のライバルになるよ」と。入ったときにすでにそう言っていたのですから。やはり宗さんに負けないためには、負けないような練習をしなければいけないわけです。ですから、いつも宮崎の空を見て、「東京が雨でも、宮崎は晴れていて宗さん達も練習をやっているかもしれない。よし!今日は40キロのメニューをやろう」と。後にわかったことなのですが、宗兄弟も私と全く同じことを考えていたのだそうです。宗兄弟がいなかったら今の私はないと思います。―ロサンゼルス五輪のとき、相当瀬古さんに期待がかかっていました。ご本人としては、そのときどういう思いだったのか、自信たっぷりで挑んでいたのか、それともプレッシャーがあったのか、その辺をお聞かせください。ロスオリンピックのマラソンの金メダル候補と言われて、日本中の皆さんから激励の言葉がいっぱいあって嬉しかったです。ただですね、私も一生懸命頑張っているのですが皆さんからはまた、頑張れと言われるのです(笑)。言う人は1回だけかもしれませんけれども、私は100人いたら100回頑張れと言われるのです。金メダルを取ってとか。ありがたいことなのですが、そういうことにすごく疲れてきて、頑張っているのにまだ頑張らなければいけないのかと。それで、体調がよければよかったのですが、年が明けてからずっと好調ではなかったのです。練習はしなければいけないし、休んではいけないし、ちょっと疲れているからといって練習のペースを落としてくれなどという弱みを監督に言えなかったのです。それで、どんどん自分を追い込んでしまって、疲れがあるまま最後の練習を迎えたら、2週間前ですかね、東京で暑い中練習をしたのですけれども、8月のはじめです、調整練習として神宮外苑で20キロ走をやったのです。そうしたら、後半の10キロがぼろぼろで。最後はフラフラになってしまったのです。しかも、終わった後に血尿が出てしまって。病院に行ったら、「瀬古さん、休まないと完走できないよ」とか、「オリンピックに出ら4|Pipette     Guest:瀬古 利彦The interview

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