Pipette vol.35 2022.4 Spring
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The interview僕は、プロになれると思って野球をやっていたわけではありませんでした。プロの世界にドラフトで指名していただいて、ここからが勝負だなと思って入ったのですが、まず体格的な差というのは、プロに入って一番痛感しました。当時の12球団の中で下から数えたほうがいいぐらいの体の小ささでした。ですが、「足」という武器を兼ね備えていたからこそプロの世界に入れたと思い、それをどう生かすかを考えました。僕は体格の影響もあり、他の選手と太刀打ちするために常に能力の100パーセントに近い状態で試合に臨んでいました。その中で、やればやるほど毎年けがをし始め、プロをやっていく中での蓄積になってしまい、最後のダイビングキャッチに繋がったのかと思います。というのは、その2年前に1回ダイブをしたときに首を痛めていて、先生からも「ダイビングキャッチやヘッドスライディングは気を付けないと。次にやったら危ないよ」ということを言われてはいたのですが。100パーセントの力を出して戦いたい、戦わないとこの世界では戦えないと思ってずっとやってきていたので、正直残念な形でけがをしてしまったのですが、僕はけがをしたことを後悔しているというよりは、あの時ボールを補れなかったというのが一番の後悔です。実際にダイブしたときに全くボールを追えなくて、そのときに初めてけがの怖さを感じました。よく野球人は「グラウンドで死ねたら本望だ」などと言うのですが、全然本望ではないと、あのとき思いました。当時、けがをしっかり治して復活し、けがをしないよう新たなスタイルをつくらないと・・・ということも考えましたが、今思うと、あのときに身を引いておいて良かったなと思います。赤星のプレーを見たい、赤星の盗塁を見たい、赤星の守備を見たいと思って来てくれている人たちに対して、それができないのだったら・・・という葛藤が始まって、最終的にそれは無理なのではないかというのがあったので「引退する」という決断をしたのです。―阪神タイガースの赤星選手と言うと、ヒットで塁に出れば「2塁打も同然」が当り前の盗塁と、どこに飛んでも抜けない外野の華麗な守備でした。そして、なんと言ってもショックだったのは突然の引退でした。ファンとしては毎日の新聞でいつ復帰するのだろうか、きっと戻ってくると思っていました。赤星さんご自身が一番つらい決断をされたのは間違いありませんが、その時の心情などお話し頂けますか?of i   赤星さんは、2001年プロ野球セ・リーグ阪神タイガースにドラフト4位で入団。プロ1年目から外野のレギュラーを確保し、盗塁王と新人王の2冠を獲得した球界随一の俊足。 2001〜2005年まで5年連続の盗塁王に輝き、新人王、盗塁王、ゴールデングラブ賞などを獲得。2009年試合中のダイビングキャッチで脊髄を損傷し同年引退。 2003年ゴールデングラブ賞この年から盗塁した数と同じ数の車いすを寄贈し始める。引退後は「Rng星憲広の輪を広げる基金〜」を設立し、チャリティー活動や社会貢献に力を注いでいる。2003年から続いている車いすの寄贈数は年々増加を続けている。また、野球界発展を目指し、自身がオーナーを務める少年野球チームを設立されるなど、引退後も積極的に活動されている赤星さんにお話をお聞きしました。受賞(以降2006年まで4年連続受賞)。そしてRed〜赤プロ野球からの引退につい て赤星憲広挑戦そして意識改革2|Pipette野球評論家診療支援部臨床検査部門ゲスト聞き手Guest:赤星 憲広The interview赤星 憲広元プロ野球選手山﨑 真一広島大学病院

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