Pipette vol.35 2022.4 Spring
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が2000年にあり、日本代表に選ばれました。そのような状況の中、もう1回プロに行きたいという気持ちに変わっていきました。正直僕は大学に行くとき、社会人になるとき、この2つに関しては、どちらに転んでもおかしくありませんでした。―「諦めてはいけないよ」と常に後ろからささやかれ続けた感じですね。そうですね。何か自分が外れていきそうなときに、それを押し戻してくれる何か、誰かの一声だったり周りの人たちの支えであったりというのは、すごくあったと思います。だからこそプロに入ったときに、自分の力でここまで来られたわけではないと思っていましたし、阪神に入ったことも何かすごく運命的でした。―プロ野球人生の中で、野村克也監督と星野仙一監督という、かなり個性の強い指導者を経験されておられますが、両監督ともに赤星さんにとって影響を与えられた方だと思います。赤星さんから見て両監督の指導者としてのタイプと赤星さんが活躍するためには、どちらの監督が向いておられましたでしょうか?野村さんのイメージというのは多分皆さん持たれているのは、ぼやきのイメージがすごくあると思うのですが、この人は野球が大好きなのだなと思いました。自分の経験や今までやってきたものなどを全て選手に還元したい、そして「それを聞いて、どうおまえらが判断するかというのは、おまえら次第だけれども」というのを常に言葉に出して伝えようとしてくださるのが野村さんだったと思います。ベンチで常に近くに座って、その日に野村さんが何を言っていたか、試合の中でどういうことがあったのかというのを、試合後にはすぐメモに書いて、「ノムさん、こうやって言っていたな」という話を寮に帰ってから見直したりしながら、次の日のピッチャーはこうやって見ていけばいいだろうというのを考えたりしていました。一番自信がなかったのはバッティングだったのですが、やはり配―引退されるという決断はとても大きな決断だったと思いますが、それ以外に今までの人生の中で大きな決断というのは幾つかあったのでしょうか?高校から大学、大学から社会人、その区切りの決断です。高校から大学は、最初東京へ行くつもりは全くありませんでした。愛知県出身だったということもあって、愛知の大学に行きたいという気持ちが強かったのです。当時お付き合いしていた彼女は愛知県の大学に行くことが決まっていたので、僕も違う大学ですが野球も続けられる愛知の大学に行こうと思っていましたが、まさかの不合格となってしまいました。その時、声を掛けてくれたのは全部県外の大学で、迷いましたが野球は高いレベルでやりたいという気持ちはどこかに持っていたので、亜細亜大学を選んだのです。この選択はすごく大きな決断だったかなと思います。大学3年生のときぐらいからプロのスカウトや社会人野球のスカウトの方たちが僕を見に来てくださっていました。しかし、「赤星はやはり体型的にプロは厳しいのではないか」ということをいろいろ言われ始めました。ですので、正直僕は1回プロの道を諦めたのです。だから安定している会社に行こうと思ってJR東日本を選択したのです。ある意味、いい意味ではなく悪い意味での決断ではあったのです。プロを諦めた瞬間でしたが、ちょうどシドニーオリンピック人生の大きな決断野村監督星野監督の影響     3

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