Pipette vol.36 2022.7 Summer
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The interviewアナウンサーになるきっかけもの頃から何かというと、人前で話すということには手を挙げていました。それを続けていまして、中学生や高校生の頃も文化祭のときなどは司会をしていましたが、高校生のときは自分の司会をしているイベントというのは本当に大ウケで、その頃から「アナウンサーになりたい、テレビに出たい」というような気持ちがとても強かったです。ですから、卒業アルバムにはアナウンサーになるというようなことを書いたのですよ。みんなに笑われましたが(笑)…。それが実現して、こんなに幸せな人生はないなと思っています。―笠井さんが報道する上で意識していること、信念やモットーなど教えていただけますか?人前で話すときは普通は原稿を書き言葉で書くと思います。その原稿に問題がありまして、書き言葉で書かれている原稿を自分の言葉でリライトすることが大事です。特に自分の普段使わない単語が入っていると、言葉がどんどん死んでいくのです。ですから、自分のレベルに合わせた単語を使うということです。例えば「臨床検査技師」という言葉を、皆さんは使っていますけれども、普通に使わない人に話すときは「病院で検査をしてくださる先生方」というふうに言い換えるわけですよ。また、アナウンサーというのは、どちら     うことで、素直に出すことにしていました。かといいますとあまり感情表現をしないで、安定した状況で物事を伝えていくことが常なのですが、私は喜怒哀楽を大切にしながら、ワイドショーや情報番組の司会、またリポーターのとき、自分が現場の気持ちに立ってニュースを伝えることがとても大切だと思います。以前より泣くアナウンサーで有名でしたが、あまりにも感動して涙が出るのはしようがないではないかといアナウンサーの世界では異論もあると思いますが、それが自分らしさだなと思って大切にしていました。―笠井さんは、1987年、フジテレビにアナウンサーとして入社しておられますが、いつ頃からアナウンサーという職業を目指されたのでしょうか。何かきっかけになるようなことがあったのでしょうか?子どもの頃から人前で話すことが好きで、小学校3年生くらいからいろいろな司会をしていました。学校行事でも修学旅行の演芸会があれば司会など、とにかく子ど フジテレビアナウンサーとして阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、東日本大震災と、常に現場の報道の最前線に立ち続ける一方、アニメやバラエティー番組出演など幅広くマルチに大活躍していた笠井さんは、テレビ局を退社し、フリーのアナウンサーに転身されました。年間150本以上の新作映画と、100本の舞台を鑑賞し、キネマ旬報映画賞や東京国際映画祭での司会を長い間担当してきました。映画の評論も多数執筆されています。 2019年11月、悪性リンパ腫のステージ4と診断され、厳しい治療に伴う強い副作用に悩まされた経験をお持ちです。強い復帰への執念で完全寛解を勝ちとり見事に現場復帰をされました。闘病中に始めた積極的なSNSの発信によって、そのつながりを広めておられます。笠井さんは私たちに、どんなに絶望のどん底にいようとも〝生〟に対する強い執着心、絶対に諦めない心、そして家族の絆の大切さを伝えているように思います。笠井信輔引き算の縁と足し算の縁2|Pipetteフリーアナウンサー東京都立神経病院検査科ゲスト聞き手Guest:笠井 信輔The interview笠井 信輔汐谷 陽子

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