旭化成へ入社けることなく壁を乗り越えることができたと思います。―駅伝での全国デビューは、実に鮮烈なものでした。2区を任され17人抜きでした。1区での出遅れを挽回するために、必死で走られたと思うのですが、そう思えば思うほど、前半突っ込みすぎて、後半バテてしまうということがよくあると思うのですが?2区は4キロ少しの下りで、とても得意で、バテにくいようなコースでしたので、第1区が遅れてきたこともあり、1つでも前に行こうという思いで無我夢中で走りました。―非常に気持ち良く走れた感じですか? いいえ。地元なので優勝しか狙っていないのですが、第1区で遅れてきてしまったので、気持ちいいというよりは何が何でも1つ前に行かなければならないという使命感です。30人以上いる中の代表の5人として走っているので、今までやってきたことを全てぶつけて、チームのためにという思いで全身全霊走りました。超高校級の選手であれば楽しむ域にいくかもしれないですが、そこまで力がないので、楽しむ余裕はないですね。もう必死で無我夢中で、走った時の記憶もほとんどないぐらいです。―翌年、3年生では花の1区を任されるエースにまで成長されました。キャプテンという重責も担われていました。しかし、そのレースで「今までの人生で一番悔しい経験でした。」と反省されていますが、高校3年生の時の走りはいかがでしたか? 最終学年で優勝を狙えるという前評判もありましたし、チーム力も充実していたので優勝しか狙っていなかったのですが、私が1区で出遅れてしまって、私のせいでチームは優勝できませんでした。個人競技でしたら自分が悲しめば済むことですが、団体競技で、監督、コーチ、選手はもちろんお父さんお母さんや、みんなでチーム一丸となって優勝を目指して走っているところを、私1人のせいで優勝できなかったので、本当に人生で一番涙を流しました。数年前に北京五輪で高梨沙羅さんが失格してしまったことがありましたが、あれは世界で、しかも日本代表なので比べるのは失礼ですけれども、高校生にしてみるとそれぐらいのショックでした。あの時の失敗は本当に今でも後悔をしていて、みんなに申し訳ないと思っているのですが、失敗があったからこそ、このままでは終われないという思いで競技を続けることになったので、失敗を大切にできたことは良かったのかなと思っています。 その後、卒業して実業団に進み、高校生の何倍も苦しい練習量で諦めそうになりましたが、その苦しい時にあの時の失敗を必ず思い出すようにしていました。今を一生懸命生きていれば、もしかしたらあの時の仲間たちが認めてくれるかもしれないという思いで、苦しい練習に打ち勝つことができたかなと思います。―その後、大学に進学されずに実業団で強豪の旭化成に入社されたと聞いていますが、旭化成に入社されたきっかけを教えてください。3
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