Pipette vol.42 2024.1 Winter
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 大学からもお声がけいただいたのですが、不器用な性格なので、勉強と陸上と2つを頑張ることは向いていないのではないかと‥(笑)私は陸上を取ろうと思いました。名門の旭化成に行くきっかけは、私よりも強い選手が同じ高校に女子で3人、男子で1人いて、その4人が既に旭化成に行くことが決まっていました。その入る選手を視察に来ていた宗兄弟の弟の宗猛さんに、私が横を走っていたら「あの子は面白そうだ。あの子も一緒に来たらどうだ」という感じで言っていただきました。同じ高校から4人も5人も行くのは異例の話ですが、おまけで連れていっていただいた状況でした。―やはり社会人の練習の質や量などは、高校とは随分違うものですか? 練習量も格段に上がりますし、質・量ともにやはりお金をいただいて走るだけのことはあって厳しいものでしたが、ただ実業団に行ったほうがメリハリがありました。高校の時はどちらかというと、毎日自分を追い込んでレギュラー争いも大変だったので負荷をかけていたのですが、実業団に行ってからは負荷をかける日とジョギングで体を休ませる日のメリハリをつけたところ、そちらのほうが私には合っていました。また、成長期も落ち着いて、ケガも少なくなり、実業団になってからメキメキと力を付けたという状況でした。―高校の時はフルマラソンを走るといった練習ではなく、1万メートルなどの長距離でしたか? いいえ、駅伝は最長でも6キロですが、6キロの練習はほとんどやらず、3000メートルの練習が主体でした。高校の時のメインの種目は3000メートルでした。実業団に行って、初めて1万メートルを走りましたが、その後フルにどんどん距離を伸ばしていく感じでした。―世界陸上のトラックとマラソンでもメダルをお取りになられて、非常にご活躍されたと認識しています。様々なレースの中で、「展開が良かった、完璧だった」というものと、逆に「これは悔しくて忘れられない」といったレースがあれば、教えてください。2003年の大阪国際は、そのレースで駄目だったら引退しようと腹をくくってチャレンジしたレースだったのですが、そこで大幅な自己記録が出まして、世界陸上パリ大会の切符をつかみました。そのレースはとてもうれしかったです。悔しかったのは、2004年の大阪国際でオリンピックの代表を逃してしまって、陸上人生の大きな挫折を味わいました。1日に多い時でをそこにささげて練習してきたのに、オリンピックに行けないという、本当に悲しい時は涙も出ないという経験をしました。しばらく誰にも合わせる顔がなく、ずっと部屋に引きこもって下を向いていたのですが、ある日やっとの思いで部屋から出て、いつものジョギングコースに出かけました。その時に「ああ、補欠の選手になってしまった」と、一度は下を向いたのですけれども、自分の人生の主役は自分だから、また前を向いて一歩一歩進んでいけたらいいのかなと思い直すことができました。しばらくたってから、なぜあの時あのように考えることができたのかと振り返ると、ジョギングや有酸素運動などの自分のリズムでできる運動は、科学的にも自律神経を整える効果があるといわれています。ですから、挫折した時に走ることやスポーツによって救われたので、選手を引退した後には、スポーツで世の中を明るく元気にできるような活動をやっていきたいと思いました。―千葉さんの体形はきゃしゃに見えますが、アスリートとしては実際に向いていると思わ ま またた、、特特にに長長距距離離型型のの体体形形やや向向て長距離向きというのがありますか? い い いろろろいいいろろろなななタタタイイイプププののの選選選手手手がががいいいるるるのののででで、、、一一一4|PipetteThe interviewれれまますすかか??いいてていいるる心心肺肺機機能能ななどど、、体体形形やや体体つつききにによよっっ概概概にににははは言言言えええななないいいででですすす。。。例例例えええばばば、、、今今今現現現役役役ののの松松松50キロ、60キロを走っていて、青春の全てGuest:千葉真子

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