Pipette vol.43 2024.4 Spring
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      3―槙原さんは、ミスターパーフェクトといわれるぐらいの完全試合をしました。完全試合をされた時は、投球術や野球哲学などがあったから完全試合ができたのですか?今思うと7回あたりから頭の中は「シーン」としていました。次は何を投げようか、これはどう考えているだろうかと、そこだけに集中していました。キャッチャーのサインで大体自分のことを決めていくのですが、サインが出る前にこう投げたいと即座に反応しました。キャッチャーのサインも、大体同じものが出ていました。首を振っている時はお互いに迷いがありますが、今の調子であれば「これを投げておけば…」という選択肢が非常に良かったというか、お互いに合っていました。キャッチャーの村田とは同期入団で年齢も一緒の長い付き合いですから、その点では非常にストレスなくサインが出たことも要因につながったと思います。―何回ぐらいから完全試合を考えていましたか?そうですね…5回ぐらいからでしょうか。ノーヒットや完全試合が続いている時、ベンチは気付いていますから、悟られないようにするので不自然になりますね(笑)。5回が終わった時点で5対0か6対0だったので、ほぼ勝ちですね。ここからどう打たれてもピッチャー交代になることはないし、一番大事な勝ち星を獲得できたの完全試合かってきていますね。―槙原さんは、基本的に先発完投タイプだと思っていましたが、抑え役に回ったこともあります。チーム事情もあるとは思いますが、ご自身では、どちらが向いているとお考えですか? また、通算200勝という目標を目前に、抑えに回された時の心情はいかがでしたか?本柱とガルベスを採ったのですが、この4人の中で先発から誰かを出すと考えた時に、ガルベスは多分受けない、桑田はまだ若い、斎藤は先発の柱だと、私にくるかなと思っていたら、やはりきましたね。その時点で、勝ち星は150を超えていたと思います。まだ年齢的にも200は狙えない数字ではないけれども、長嶋さんから言われて、誰かがやらなくてはいけないし仕方がないなと思いました。逆にそう思わないと割り切れなかったのかもしれませんが、その時にこれは将来のいい経験になるなと考えました。リリーフは、毎日いつ出るのか分からないのが大変でした。どの場面で出るかも分からないので、球速が自分の中で落ちてきたなという35〜36歳の時にリリーフをやったのは、逆にきつかったですね。―当時のジャイアンツの3本柱の槙原さん、桑田さん、斎藤さんはそれぞれ全然違うピッチャーだと思うのですが、この3人の中で何番目だったと思いますか。槙原さんはエースだと思っていますか?それはないです。当時斎藤が一番安定していました。桑田も私も抑える時は抑えますが、派手に打たれる時もあるので、悪くても全部こなすのは斎藤で、やれるところまで頑張る集中力を感じました。エースは斎藤だったかなと思います。私は、駄目だと思って諦めてしまうような、ムラがありました。気持ちの隙があるピッチャーよりも、駄目な時は駄目な時なりに頑張れるピッチャーがエースだと私は思っているので、その点では斎藤には勝てないなと思いました。97年ごろ、リリーフがいなくなり、当時3

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