Pipette vol.43 2024.4 Spring
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生涯ジャイアンツという選択のあるピッチングができたのは股関節が完治した後でした。ケガの克服は、ただ「キツイ」と思っていたので、逆に「チャンス」とは思いませんでしたが、自身を見つめ直すことはできました(笑)。―槙原さんは視力も弱くて、引退後のエピソードで「実はプロ20年間で捕手のサインが一度も見えなかった」という話をお聞きしました。いまだに見えないです。鳥目かもしれないですけれども、ナイターでは全然見えないです。私はコンタクトをしても上がらない、遠視と乱視のある弱視です。小学生の頃に弱視で視力矯正が難しいと言われて、確かに眼鏡をかけても0.6ぐらいにしかならないです。―サインと違うものを投げることはなかったですか?胸で他のサインを出しますが、解読されてしまうので複雑にして、イニングイニングで変えるので、キャッチャーとピッチャーでミスすることは何回かありました。―ブルペンでの調子と、いざマウンドに立ったときの調子とが異なるものなのですか?ブルペンで調子良くてもマウンドに行くと全然違うという時もあるし、ブルペンが駄目でもマウンドに行くと良くなるという、逆もありました。相殺できるので、マウンドに上がってどう微調整できるかです。適応が早い人は意外に安定していますが、どのピッチャーでも一回は不安定な時がありますね。特に神宮球場は、ブルペンとマウンドの高さが違います。意図的に変えているのか分かりませんが、角度が違うので高めにしかいかなくなります。ブルペンで自分の中でやってきたものとマウンドでは形状が違うので、高めにいきます。それを戻すにはまた微調整しないといけないので、神宮球場は大嫌いでした。また、神宮は大学生も使っているので、穴も掘れるしマウンド状態が最悪でした。今は硬くしたので、それほど穴が掘れるリスクはなくなりましたけれども、昔はひどかったです。砂をかぶせているだけで、前に使っていた穴がすぐに出現するので、初回から適応するのがなかなか難しかったです。―槙原さんは生涯ずっとジャイアンツで、野球選手を終わられました。途中でFAの話もあったと思いますが、他球団に移籍しようという気持ちはなかったのでしょうか?私や駒田さん、落合さんは、適用1号というか、FA制度の初めての選手でした。「みんな、FA宣言しても巨人を出る選手はほとんどいないと思っていた。権利としてもったいないから、他球団の話を聞くだけ聞こうか程度に思いました。」私も別に出るつもりは全くなかったのですが、他のチームの話も聞きたいなとは実際に思ったことはありました。当時も巨人の人気は大変高かったので、辞めた後のセカンドキャリアは、巨人で終わったほうがテレビや解説なども含めて非常にいいといわれていた時代でした。94年だから30過ぎだったので、残りの野球人生も考えながら、身の振り方を考えなければいけないと思っていた時期でした。―指導者という面からですが、一番は長嶋茂雄監督との出会いだと思いますが、実際には藤田、王、原さんと何人かの監督を経験されています。それぞれ性格も違われますが、どのタイプがご自身と相性が良かったでしょうか?すごいことを聞きますね(笑)。ただ、ピッチャー出身の監督で、デビューした年も藤田さんだったので、完投を意識させてくれたのと、20歳の時にデビューさせてくれたのが非常にありがたかったです。投げたくてうずうずしていた時期にいいスタートを引き出してもらった、礎をつくってくれたのは藤田さんで、当然王さんにもそういったものを頂きました。長嶋さんには、フリーエージェントなど折に触れていろいろな助言をもらいながら、結果的にはジャイアンツに残り20年弱やらせてもらったのは非常に良かったです。誰を選ぶというのはなく、感謝しかありません!―今まで臨時コーチはされたと思います。前回この対談で大府高校の後輩である赤星さんにも同じ質問をしましたが、今後巨人のユニホームを着て、コーチや監督を目指されるご予定はないでしょうか?赤星はまだ若いのでいいですが、私はもうすぐ60になるので、その時期を逸しました。40代で一度着ておけば違ったと思いま       5

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