Pipette vol.44 2024.7 Summer
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     重病でって言うサートツアーを開始する矢先であったとお聞きしておりますが、気持ちの整理などはできたのでしょうか?当時、コンサートツアーとアルバム発売が決まっていました。また、愛知県で行われた全国植樹祭のイメージソングを書かせていただいていて、当時即位されたばかりの天皇皇后両陛下の前で予定されていた歌の披露も難しくなり、「あー、すごくたくさんの人にこれから迷惑を掛けていくな」と、コンサートのキャンセルとか様々なことが頭を駆け巡りました。初めはマネージャーにも言えなくて、その週にいろいろなラジオ番組のゲストなども入っていて、「お断りするにも何て言おうか… のも…」などと考え、なかなか整理がつかなかったです。―仕事柄、病気に立ち向かわれる患者さんと接する機会が多いのですが、岡村さんのように見事に寛解され、再び表舞台に戻って来られるお姿を拝見するだけで、私ども熱心なリスナーだけでなく、多くの方々に生きる勇気と希望を与えていただいたと感謝しています。また、保険会社のCMや多くのマスメディアにも隠さず公表され、「病気と闘う」というよりは「病気に寄添う」といった、なにか自然体のスタンスに共鳴したりするのですが、岡村さんご自身は、ご病気に対してどのような思いでつき合われたのでしょうか?当時、57歳だったのですが、自分では頑張って生きてきたつもりだったので、仕方がないのかなって思う気持ちと、娘一人残していくのは…、もうちょっと見届けたいなという気持ちと、いろいろ考え、かなり精神的にも落ち込みました。が、娘には「なんとか治療を頑張ってほしい!」ということを涙ながらに訴えられて、病気の治療を前向きに頑張ろうかなという気持ちになりました。本当はすごく怖かったのですが、「こういう病気で今から闘ってきます」と言ったほうが、リスナーさんに、コンサートがキャンセルになっても納得していただけると思うし、背中も押していただけるかもしれないという気持ちでした。―岡村さんは辛い闘病生活があったというふうに伺っていますが、闘病生活を乗り越えられた、その支えになったのはどのようなことでしょうか?公表したおかげで、リスナーの方々が励ましのメールやツイッター(現エックス)を、私が目にすることができる所で書いてくださいました。七夕の時にも七夕応援メールをしていただき、それがテレビの番組に取り上げられて、病室で拝見致しました。リスナーの皆さん、それから家族、病院の先生方、チーム医療ということでたくさんのスタッフの皆さん、それから私のスタッフ、本当にたくさんの方々に支えられました。治療については、最低5カ月と最初に説明されまして、「長い方は1年半います」と言われたので、「どれぐらいになるのかな?」って全然想像がつかなかったです。移植の後は特に大変で、背骨が6カ所圧迫骨折したり、顔が腫れるなど、様々なことが起こりました。入院生活では、夜、独りぼっちだなと感じることが特に多かったので、夜が一番寂しいというか、辛かったです。でも、家族のメールでたくさん励まされました。―支えになったのは、いろいろな周りの方が支えてくださったのですね。はいそうです。また、娘の提案で「なるべくいろんな先生とか看護師さんとかスタッフの方が足を運んでくれるような明るい病室にしよう」ということで、入院生活を心がけていました。先生方が入りやすいように、辛くても笑っているようにしていたりとか、たくさんの方が足を運んでくだ病気との付き合い方  4|PipetteThe interviewGuest:岡村 孝子

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